2014年 07月 30日
唯一無二の時間

唯一無二の時間こそが、コンサートの妙味。。
青柳先生のコラム・・大変共感しましたので、
ご紹介させていただきます。
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青柳いづみこ先生のコラム(フェイスブック)より
7月27日付け読売新聞書評欄に新刊の短評が掲載された。 書いてくれたのは文化部の松本良一記者。音楽と文学の双方に明るい貴重なジャーナリストだ。
音楽という絶対的な価値体系のないものに対して、今の演奏が良かったのか悪かったのか、専門家の顔色を伺う聴き手は多い。 絶対音感を持ち、楽譜のすみずみまで知っている耳は些細なミスも見逃さないから、当然聴き方は変わってくるだろう。
しかし私は、演奏というのは「始まったか、何も起こらずに終わってしまったか」しかないと思っている。 聴き手の中にはいってくる・・・という言い方をしてもよいが、とにかくそれまでは--どんなに見事な演奏でも--関係ないものとして外側で聞こえていた音の連なりが、ある瞬間から突然意味をもちはじめ、弾き手が綴るストーリーに従って自在に気持ちが動く。
「始まった」演奏は聴き手の気持ちを変える。ホールに来たときとは別の気分で会場をあとにする。表情も変わる。何かに悩んでいても、みんな幸せそうな笑顔になる。オリンピックで浅田真央ちゃんのトリプルアクセルが成功したときのような、よかったなーという気持ちになる。
「始まる」のは何がきっかけなのか、何が要因なのか、はっきりわからない。演奏家の気分か聴き手の気分か、弾いている楽曲との相性か、そのときの気候か、気候に左右されやすい楽器の状態か。あるいは他の何かか。
個人的なものか普遍的なものかもわからない。私にとって「始まった」演奏が、他の聴き手にとっては何も始まっていないこともある。あとで感想を交換すると、やっぱりあそこから突然おもしろくなったね、と共感しあうこともある。
弾き手が感情移入して演奏したからといって演奏が「始まる」わけでもない。むしろ、何だかぼんやり弾いてしまったなとか、悔やんでステージを降りたときにかぎって、楽屋で感激した聴き手に取り囲まれたりする。
『ピアニストたちの祝祭』は、私がここ十年くらい、いろいろな演奏会や音楽祭に通ったときの体験をとおして、「始まった」演奏と「始まらない」演奏の違い、それはどうしてかというようなことを推理したり、あるいは、自分自身が出演したコンサートで、なぜ「始まらなかったのか」というようなことをつらつら考える本だった・・・ように思う。
有名ピアニストもそうではない人も、有名音楽祭もそうではない音楽祭も、よく知られた曲もマニアックな曲も、成功した演奏も成功しなかった演奏も混ざっているが、スタンスはきっとそうだったにちがいないと、松本記者の書評を読んで思った。

